新刊のお知らせ

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馬語手帖から3年。
ようやく、次の本が完成しました。

長かったー。
いろいろな人にてつだってもらいながら、
やっとこさっとこできあがりました。

詳細はこちらでどうぞ→『はしっこに、馬といる』

3月30日発売予定。
カディブックスのオンラインストアでは、
3月25日から注文をお受けします。

横長の本です。
こんなケースに入っています。

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馬語手帖

20120422.gif


こういう本を作りました。
小さな出版社も船出しました。

くわしくはこちらを見てみてください。
→カディブックス

ゆっくり、ゆーっくり、やってます。


この本は、いちおう、
私が文と絵をかいていますが、
その中身は、というと、
これまでに出会った馬と、
馬仲間に教えてもらったことばかりです。

というわけで、本の紹介とともに、
馬仲間たちにつながるリンクのコーナーを
このブログでも作ってみました。
左下の方にあります。
こちらもぜひ見てみてください。

哲学者とオオカミ


哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン哲学者とオオカミ
マーク・ローランズ

詳細を見る


こういう本がある、ということを知った時、
ちょっと震えるような感覚があった。

動物と一緒に暮らすヒトはたくさんいるけれども、
どういうスタンスでその関係性をとらえているかによって、
触るものはまったく違う。

その点、この著者が触っている世界は、
私が触ろうと手を伸ばしている世界と、
かなり近いところにある、という予感があった。

本書は、大学で現代哲学を講じる若き学者が、
一匹のオオカミと出会い、10年間共に暮らし、
その死を看取るまでを記したユニークな読物である。

とにかく、ブレニンと名づけられたオオカミの、
生き生きとした姿、存在感、野生の輝き、
そして共同生活をする中で振り回され続ける著者の姿が、
本当におもしろくて、最後まで一気に読んでしまった。
特に、ブレニンが死を迎える瞬間の記述は、
もう涙なしに読めないので、
動物好きのヒトは覚悟してください。

さて、著者は哲学者である。
それだけでは終わらない。
オオカミとの暮らしから生じる様々なトピックが、
当然、思索の道へとつながるのだった。
現実的に、動物との関わり合いをどうとらえるか、
というテーマにおいても、
さらに根源的な、
ヒトとは何かというテーマにおいても、
著者はひとつひとつ問いを立てていく。

そう、そうなんだよ、
と、なんども思う場面があった。
私もつい、
いろいろなことを問うてしまうたちなので。

ただ、なんといっても、この著者は、
若くて頑健な体を持ち、なおかつ鍛え、
ハンサムで(自分でそう言っている)、
頭脳も優秀な「白人の男性」である。

当然、導き出される答えも、
その傾向に沿ったものになる。

そういう意味では、同じ問いに対して、
私なら違う答え方をするだろうな、
と思うところも多かった。
体力がなく、美しいとはいえず、
頭もぼけつつある「アジア人の女性」としては。

たとえば、彼は動物に対する正義をつらぬくために、
自らは完全なヴェジタリアンになり、
オオカミであるブレニンにも肉食をやめさせる。
ちょっと極端な気がする。
その気持ちはわからないでもないけれど…。

にもかかわらず、
こんなにいくつも相違点がありながら、
最終的に帰着するところは、
ああ、やはり、と感じる場所になったので、
それも興味深かった。

動物とずっと生活を共にしたヒトだから、
そういうことになるのだろうか。
実際に、ダイレクトに、
深くコミットしたヒトにしか、
わからないのではないかと思う感覚だ。

動物は瞬間を生きている。
ヒトは相手を弱くして自分に有利に働くよう操作する、
かなり邪悪な生き物だけれど、
ほんの時たま、「瞬間」を感じることがある。
それはけっして、すばらしかったり、美しかったり、
するものとは限らない。
一番大切なのは、あらゆる運が尽きた時、
自分がどういう人間であるか、ということだ。
その時にこそ、そのヒトの本質が問われる。
そのようなこと。

私が馬と暮らし始めたのは、
たぶん、ヒトとの間だけでは、
けっして触ることのできない何かを、
感じ、触り、養っていくためだと思うことがある。

私はこの本の著者と違って、
もっと曲線的で矛盾に満ちていて、
それでも未来の養分となるような、
そういう流れを指向している。

いつか、馬との暮らしから学んだことを、
社会に向けてアウトプットできる日が来るだろうか。
そうであればいいなと思っている。

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センス・オブ・ワンダー

センス・オブ・ワンダーセンス・オブ・ワンダー

(1996/07)
レイチェル・L. カーソン

商品詳細を見る


昨日の文章の続きで本を一冊ご紹介。

都会で暮らしていた頃、旅に出て、
あふれるような自然を前にすると、
すぐに馴染めず、
居心地の悪さを感じることがあった。
思考のおしゃべりが止まらない。
自分の息が浅いことを自覚する。
リズムが合わない。

それでも我慢して1時間ぐらい待っていると、
ようやく、自分の体が開いて、
自然との同調が始まる。

目が色を見、
耳が音を聴き、
鼻が匂いを嗅ぐ。
さっきまでさわれなかった世界が立ち現れる。

自然はいつでも、惜しみなく、
豊かな恵みを私たちに与えて続けてくれるけれど、
それを受け取るには、ある種の「才能」が必要だ。
コドモの頃は誰でも持っていたはずのその「才能」は、
使わなければ次第に閉じてしまう。

その「才能」こそ、カーソンのいう、
センス・オブ・ワンダーなのだと思う。

美しいものを美しいと感じる感覚。
新しいもの、未知なものにふれたときに、
目を見はる感性。

海洋学者であるレイチェル・カーソンは、
その著書『沈黙の春』で、
環境破壊がもたらす地球の未来について、
警鐘を鳴らした。

でも命の尽きる前、
彼女が最後に書こうとしたのは、
甥と一緒に過ごした輝ける瞬間のことだった。

昔からこの本のことは知っていたし、
すばらしい本だと思っていた。

今、あらためて読むと、
もっと奥の方から、
ああ、本当にそのとおり、と体に響いてくる。
一言一句にうなずいてしまう。

それは、
馬と海辺を歩きながら、
月夜に波の音を聴きながら、
季節ごとに草木が発する芳香を嗅ぎながら、
私が感じている言葉と一緒だ。

こればっかりは、
観念だけで触ることはできない世界。

現実的、実践的な視点から見ても、
分断された世界を生き延びるための命綱は、
こういうところにあるんじゃないかな、と思う。

いやいやえん

いやいやえん―童話 (福音館創作童話シリーズ)いやいやえん

(1962/12/25)
中川 李枝子

商品詳細を見る


月に1~2回、近くの小学校に行って、
子ども達に「読み聞かせ」をしている。

やらないか、と声がかかった時、
物語を「語る」ということに興味があったので、
ひきうけてみた。
朗読の経験はないけれど。

コドモは、みんな集めても12人。
幼稚園~3年生の低学年組と、
4~6年生の高学年組に分かれて、
始業前に20分間、本を読み聞かせる。

選本は読み手にゆだねられている。
さて何読もう、と考えた。
特に低学年組。

私が好きな童話というのは、
案外暗かったりするので、
コドモが喜ぶとは限らない。

彼らが目を輝かせそうなお話、
と考えた時、真っ先に私の頭に浮かんだのは、
この『いやいやえん』だった。

あれ、おもしろかったなーと、
もう一度自分が読みたくなって、
手元に取り寄せてしまった。

読み返してみて、やっぱりおもしろい。
最高だ。

やまのこぐちゃんもいいし、
りんごとばななとみかんとももが、
たわわになっているくだものの山もいい。

そして主人公のしげる。
これがまあ本当に、
よいこの範疇から思いっきりはずれている。

かおをあらっていなくて、
ようふくもきていなくて、
ごはんもたべない。
それで、オトナが何をいっても、
「いやだい」と言い張る。

もうこれだけ読んで、私はにやにやする。
しげるのアナーキーさに。
(ちょっと自分の攻撃衝動を解放される感じがする)

いうことをきけない子は、
「いやいやえん」へ行くことになるのだが、
この童話がすばらしいのは、
オトナの正しさを押しつけないところだ。

たとえば、「いやいやえん」の
おばあさんは特別怖い人でも偉い人でもない。
ほかの話に鬼も出てくるけれど、
けっこうチャーミングでかわいい。
ともに、しげるをジャッジしない、
ニュートラルな存在だ。

しげるは、自分で自分の、
言ったこと、したことを引き受ける、
という展開になっている。
コドモにとっては、フェアな感じがする。
それでこまった事態に陥っても、
自分の頭で考える自由を与えられている。

作者の感受性が優れているのだと思う。
奥付を見ると、1962年に初版発行とあるから、
もう半世紀も前から読み継がれていることになる。

すばらしい本があってよかった。
こういう本があるから、
自由の利かないコドモ時代を、
なんとか生き延びられる、というコドモが、
この世界には必ずいるはずだ。

カディが、「いやだ」と生意気な顔をする時、
つい、笑ってしまうのは、
私の心の中に、今でもしげるが生きているからだ。

攻撃5

『攻撃―悪の自然誌』について、最後です。

読んだことをベースに、
カディの攻撃衝動について考えてみたいと思う。

カディと私の関係は、1対1だ。
これは、やはりむずかしいところがある。

カディの攻撃衝動を向ける相手は、
私しかいないから、
なにかのきっかけで、それが出てきても、
不思議はない。

たとえば、馬や犬を見ていても、
競い合ったり、
小さなけんかができる仲間がまわりにいると、
群れ全体の精神性が健やかに保たれる感じがする。

カディと私は、そういう状況の中にいない。
でもそれが現実なんだから、なんとか工夫しながら、
できることをやっていくしかないだろう。

なにか別の形で、
攻撃欲求を解消できる経路は、
ないだろうか。

そう考えながら本の中を探してみると、
いくつか、ヒントがあった。

たとえば、儀式。
戦いのデモンストレーションをすることで、
攻撃のエネルギーは放出される。
祭りのような熱狂的な行事で、
人々の中に溜め込まれたエネルギーが放出されるのは、
そういう意味合いもあるのだろう。

このことと関連して、
どういうわけか、私の頭の中には、
「ダンスのような感覚」
というイメージがが浮かんでくる。
時に激しく、時に静かに、
流れるように躍動するもの。

加えて、お互いに集中しながら、
共に新しいことを学んでいく、というプロセスは、
エネルギーの使い方として有効ではないか、と考える。


フロイトは、性と死への衝動が、
あらゆる心理の根底にある、と言った。
そして攻撃性については、
生命を破壊する方向にあるととらえていた。

ローレンツは、攻撃性を、
生物が種を維持するためにある、ととらえた。
本来は意味のあるものだと。

生きようとする、つながろうとする、
そのエネルギーがあるから攻撃衝動は起きる。
私はそうとらえようと思う。

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